改題。「インファナル・アフェア」

 

 この邦題…。ま、いいか。
以前VCDで観たし(以前書いた感想はこちらです「無間道」 - Freaky Flower黒社会モノ嫌いだし、もう2度と秋生ちゃんの「あの」シーン見たくないし…と思っていたので、公開後もイマイチ気がすすまなかったんですが、日本でロードショー公開してる偉仔の映画を観ずに済ますことはいくらなんでもできるわけないので、しぶしぶ(爆)本日足を運びました。
とっとっとっころっがどっこい。
泣けた~~~。なんでだ。前観たものと別モンみたいだったぞ。
いや、おんなじなのに全然違った。
それはおそらく必死で字幕を追いつつ「内容を理解した」映画と、流れるような物語世界にいざなわれ「登場人物の心情に思いを馳せながら見た」映画の差なのだと…あったりまえですが、そんなことをひしひしと感じました。
VCDで終わりにしなくて良かった。本当に良かった。
この映画って、こんなにも切なくて悲しくてドラマティックだったんですね。(今ごろ気づいた…馬鹿ですいません(涙))

偉仔の演技はやはり繊細で、語り尽くされてることですが「眼での演技」はピカイチです。
なんつーか、涙腺からわずかにでる潤いで感情を語れるんだよ(笑)。「ウルウル」なんて単純な言葉で表現できるようなアバウトなもんじゃないっすよ。微調整が効いてる。
もちろんそれを絶賛した上で…でもね、でも、やっぱりアンディの映画だこれ。
だってそもそも全体の視点(つまりそれは支点でもある)がアンディだし。
偉仔は最初から最後まで「語られ」「見られ」る役なんですよね基本的に。それはどうしても「語り」「見る」アンディより、見る側は感情移入がし難いと思う。構造的に。そりゃ意図してヤン(偉仔)の側に立つこともできますが、フツーに意図なく見てると、ラウ(アンディ)の側に、観客は、居る。
それは最初のシーンでの、不可避の状況におかれたわが身を図りかねる陳冠希の幼い表情のアップから始まってる。(あれ、イイね!あのシーン、とっても好きです。)
構造的に、この物語はあの陳冠希の話、なんだと思う。だからラストシーンが、最初のシーンにつながるんだな、と。
警察学校の校門を出てゆく余文楽を羨ましく思ったのは、そこに自由を見たからだろうと思うけど、同じように、死してのち高台の名誉の墓地に眠ることのできるヤンを羨ましく思うのもまた、太陽に恥じることのない「真の善」の自由を見るからなのではないかと思う。

長い時間、あらゆる状況の中でずっとわが身を図りかねていたラウが、最後に立つ場所。それが「無間道」ということなのかもしれない。
最初観たときには、この題名は漠然と「潜入者のエンドレスな苦しみの象徴か?」くらいに思っていたんだけど、今はこの題名はラウの進む道のことを指してるんだと認識してます。
ラウが最終的に選んだ「真の善」への道は、たどり着く場所の見えない無限の道なんですよね。
誰とも共有できない苦しみや秘密を抱えたまま、警察官としての出生の暗い事情を隠したまま、ラウは独りで荒野を進む。秘密を共有していた人間はみんな逝ってしまった。真の孤独と、偽物かもしれない「善」の葛藤が永遠に続く。「長寿こそが最大の苦しみ」だ。
でも、ラウの場合それは生きてる間だけではない。死んでもそれは続く。
神に恥じない善を持ち、遺伝子も残し、理解者も得たヤンは死して安らぎを得た。でも、ラウは違う。死しても善であるかどうか虚空に向かって問い続けなければならない。救われない。まさに無間地獄。
でも、救われない道を歩もうと決めたラウの表情の毅然とした輝きに、いいようもなく惹かれちゃうのだよねぇ。あそこでグッとくる。男の一代記がここから始まる、って感じだ。ナイス、華仔
ってことで。多々意見はございましょうが、個人的にこの映画は「陳冠希」→「アンディ」の「ラウ一代記」、って思います(笑)。偉仔演じるヤンは、ラウの影を浮き立たせる太陽のような存在かな、と。
もちろんヤンを支点に持ってきたら、また別の構図も浮かぶと思うけど、2度見て2度とも私にはラウばかり見えてきちゃうんだもんね。完結しているもの(ヤン)と完結していないもの(ラウ)だったら、やっぱり完結していない方に興味が湧く、というのもあるのかもしれないケド。