憂国忌

今日は憂国忌ですね。
こんな雨が降る冷たい日は、私のイメージする憂国忌ではないんだけれど。
かつて「三島由紀夫なんかより大江健三郎を読まなきゃダメでしょう?」ってな雰囲気の満ち満ちた極左大学の文学部の学生だった私は、憂国忌が近づく頃になると、授業もバンドの練習もサボり、あえて三島由紀夫の本など抱えて学校裏の靖国神社のベンチに座っては、一人澄んだ午後の空をぼんやりと眺めていたのでした。
そのせいか、私の抱く「三島的なイメージ」は、「秋の日の静かな金色の午後」の中にあります。

目を閉じると、晩秋の富士見坂が、凪いだような金色の光に包まれていたのを今でも思い出す。
長く伸びた自分の影が、陽炎のようにぼんやりと揺れていたのを。
ぷっかりと吸ったタバコの煙が青い空に消えて、全ての音が遠くに聞こえていたのを…。
私は俗世に背を向けた孤高な芸術家になったような気持ちに浸っては、誰もついてこられない自分という個性が愛しくてうっとりとしていた。まるで詩人にでもなった気分で…シアワセだったなぁ。

三島由紀夫が好きかどうかと聞かれたら、それほど好きではないと答えるかもしれない。
でも、三島由紀夫に大きなことを教わったのは確かです。好き嫌いの問題ではなくて、確かなものがそこにあることに感動していた。
それは芸術たる文学の存在や、政治ではなく観念としての皇国観などです。
ただどうしても三島ファンにはならなかったのは、決定的に美意識が異なっていたからでしょう。シュミが違う。そういうのって案外一番大きかったりするのかな。とっても尊敬してるんだけど、近くにいて欲しい存在ではない。ただそれは遠い壮麗な建造物を眺める心地に似ている。

三島は「小説を読む時間がなくて、手っ取り早く「これぞ三島由紀夫だ」というのを知りたい人がいたらこれだけ読めばたぶんOK」ってのに「憂国」を挙げています。(こういう便宜を図ってくれるのがいかにも三島らしい(笑)。芸術家然として気取ってないのがイイですね。)
それと同時に、どうしても自分が書かねばならなかった小説として、この「憂国」と、「詩を書く少年」と「海と夕焼け」の3作を挙げている。どれも三島由紀夫の真髄、ということらしい。
11月になって、またこの3作を読み返してみました。
昔よりも感じるものが多いってのが不思議だね…人間って、いつになっても完成しない。というか、それだけ三島の作品が深いということなんでしょう。
個人的にこの中では「海と夕焼け」が一押しです。極めて自己告白的な他の2作と決定的に違ってこれは絶対的に「文学」だし。この深い哲学的・宗教的な問いかけを与えられただけでも良かったと思わなければならないような、傑作です。
自分がいかにナィーヴで生き難いかを競争しているかのような現代の未熟な「純文学」なんかとは比べ物にならないですよ。真の文学とは、「感性」などというものでは決して成り立たないのだということがわかる。未読の方は是非。綺麗な夕焼けの見える日にでも読んでみると、心に残ると思います。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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