想像を絶する、ということ。

長崎の小6女児殺人事件はものすごくショッキングな事件でした。
「動機」が何だったか、というのがやたらと言われていますが、動機なんて関係ないと思う。どんな動機があれど、11歳の少女があんな惨い方法で友人を殺害する理由にはなり得ない。
犯罪のトリガーが具体的にあるはず、と考えるのはあまりにも単純なのかもしれない。
もっと深いところに原因はあるのでしょうね。それが何なのかというのは、同じような年頃の娘を持つ身としても気になるところだけど、きっとそれを探るのはものすごく難儀な道だろうと思う。
そこを端折って、「動機は○○」とされても、意味がない気がする。というよりむしろ危険な感じ。
挙げられた動機に少しでもシンパシーを感じる人ってのはいると思うし(「友達に悪口を言われて殺意を抱いたことのある人」、というアンケートをとったら何%かはYesと答えるでしょう?そういうこと)があるとすると、加害者のことをわかったような気になる人も中には出てくるわけでね。
それは単に動機(とされたもの)への共感であり、行為(殺人)に対する共感ではないのだけど、どこかに加害者との精神的つながりが生まれてしまう。そうすると、また偏った「憑依」が始まる。
そういうのって怖いと思う。
動機を解説するより先に教えなきゃいけないことがある。
それは決定的な喪失の実感、みたいなものだと思うけど…これを学校では「命の大切さ」などと言ってものすごく抽象的に語るだけなんだよね。お題目みたいに。ますます悪い、って感じ。

昔、音羽のお受験殺人事件があった時、少なからず加害者の心理を「わかる」という主婦が存在した。
幼稚園ママ仲間に冷たくされたくらいで「心の闇」を感じてしまい、あげくそこの家の子供を殺す、という信じられない唾棄すべき精神に「共感」してしまう母親の多いことに、その時の私は愕然とした。
なんて想像力がないのだろう!と。
彼女たちの共感はあくまでも加害者の「心」であり、「行為」ではないわけだけれど、それならなぜまっ先に子供を殺された親の側に立って事件を見つめられないのだろう?
普通はそうなるのではないか?と、その時は感じた。

でも、最近わかったんだけど、人間って奪われる者の側にはなかなか想像力が及ばないんですね。
今回の事件でも被害者のお父さんが呆然と語っていた。「娘がそばにいないなんて、私にとってはありえないこと」と。
「ありえない」という感覚しか、そこにはないのだと思う。
ましてや他者がその圧倒的な喪失感をリアルに想像するのは、とても難しい。想像するのを無意識で避けてしまうというのもあるかもしれないし、心理的にそちらにベクトルが向きにくいというのもあるかもしれない。
それは例えば、今、大地震があったと想定したときに、心のどこかで助かることを前提にしている人が多いのと一緒なのだと思う。
瓦礫の街を歩く自分を想像できても、建物の下敷きになった自分の死を(その何もなさを)リアルに想像できる人は少数派だと思う。
真の喪失のリアリティ、というものはなかなか心に描きにくい。
「自分だけが生き残る」方が、よほど想像しやすい。それは現在の「延長線上」でとらえられるからでしょね。
加害者に意識が向きやすいというのは、そういうことかもしれないなぁ・・・と、ふと思った。

私自身、今回の小6女児の事件は被害者より加害者の方がリアルに感じられたんですよね(これは「気持ちがわかる」という意味では全然ないよ)。
被害者の側には立ちようがない。あまりにも突然の、予想外の、決定的な喪失がいつものように平和な学校の給食時間にやってきた12歳の少女の気持ちにはどう転んでもなれない。
「お嬢さんが刺されました」と連絡をもらって駆けつけた学校で、自分の娘だけが血だらけで死んでいる姿を目の当たりにしたお父さんの気持ちにも到底想像が及ばない。
まさに想像を絶するということはこういうことを言うんだと感じる。想像もしたくない。ありえない。あまりにも、あまりにもリアルではないのです。
どのみちリアルでないなら、行為者である加害者の存在のほうがまさしく「バトルロワイヤル」のようだと納得すれば、想像は容易。
でも、そこに被害者の死は含まれていない。たぶん、加害者の少女本人も、被害者の死をリアルに想像せずに事件を起こしたのではないかな。