出生前診断にまつわる様々な事(2)

(先日の続き)
母親なら、五体満足な丈夫な子が生まれてくるのを望むのがあたりまえ…と、ごく普通にそう思っている人は多いけど、出生前診断の存在を知ってから、その感情を「あたりまえ」で片付けてしまって本当にいいのか?という疑問が湧くようになった。
「あたりまえ」に隠された不遜な心を、見過ごす事ができなくなった。感情の隅っこにひっかかる、なんというか…「ちょっとイヤな感じ」。

「健康に恵まれた子供を持っているということは、そうでない方もたくさんいらっしゃるわけなので、本当に恵まれたことだと思って有り難いことと思っており…」
かつて我が子の誕生の喜びをこういった言葉で表現した公人がいましたが、その時に感じたのがこの「ちょっとイヤな感じ」です。
このイヤな、でもたぶん正直な感情を自分で見つけてしまうことさえ悲しいのに、あたりまえのことのように平気でそれを口に出す思慮のない人というのは確かに存在する。あまり可愛くない「親ばか」だ。

私もまた心の底から「健康な子供が生まれること」を望んでいる。何に代えてもいいくらい、願っているけれど、もちろんそれは「問題を抱えた子だったらいらない」ということとは決してイコールではない。どんな子でも私の子だもの、大切に決まってる。
でも、心の底から…ほんとうに心から「どんな子でもいい」と思えたら、この引け目はないだろうと思うのだ。
瑣末な事に聞こえるかもしれないけど、「障害のある子が産まれても愛して育てる」というのと、どんな子が生まれるのか最初から気にしないのとは、受け入れる側の器が違うと思う。
「障害のある子が産まれても」という仮定が存在するうちは、「もしそうでない場合は」という仮定と相反するロジックになってるわけで、それはどこかに諦念がある気がしてならず、私はその諦念の存在そのものがすでにイヤなんですよね。
つまり、私は「産まれる前から」自分の子を100%で認められる自分でありたい。そういう公明正大さがあることを、自分の理想にしてるんだもの。でも、どう考えてもそれって絵に描いた餅だと心のどこかでわかっているのだ。ツライ。

お腹の赤ちゃんがただ健康でいて欲しいと願ってるだけなのに、そんなことがなんでこんなにツライのだろう?と、私はほとんどノイローゼ状態のまま、妊娠初期を過ごしました。
丁度つわりもひどい時期で、一日のほとんどを「何も考えなくていいように」寝てばかりいた。
今考えればあの感情の揺れは理屈だけではなかったのかもしれない。
ホルモンの乱れとか、妊婦の特有のイライラみたいなものもあって…それと、ナーバスな問題が絡んでしまった結果、半ば鬱状態にまで落ち込んだのだと思いますが、それにしても埒(らち)もないことで悶々としていたのでした。

結局、このことに関する気鬱状態は妊娠5ヶ月に入る頃まで続きました。
20代の最初の妊娠の時にはこんなことはなかった。
あの頃も確かに妊娠期間中は不安との戦いだったけど、その時の何倍も、今回の妊娠に不安を感じているということなんでしょう。
それは大部分が、あのパンフレットのせいだし、様々なところで語られている「高齢出産」という言葉に纏わりつくリスク警告のせいと言えます。
20代の妊婦は誰にも脅されないもんね(笑)。
高齢出産は脅される。有利なのはその精神状態だけ、みたいな言われようだ。「大人だから落ち着いて育児できる」とか。笑わす。
子育てに年齢は関係ない。むしろ高齢の母親ってのは「自分」である期間が長かったせいで、思想が凝り固まっていて柔軟性がなかったりする場合も多いし、完璧主義者も多い。今後、何人も産めないから産んだ子供に対する期待も強い場合が多いのに。

私は不安解消のためにいろんな本を読みまくった。とにかく知識と情報を得たかったので。結果、私の不安はほとんど解消されなかったけれども、「高齢出産」にまつわるリスクへの現実的な心構えと出生前診断に対しては自分なりの考えを持てるようにまでなりました。
一応、「お勉強」の成果はあった。
(続く)