出生前診断にまつわる様々な事(5)

(先日の続き)
結局のところいろんなことを考えた挙句、最終的に私を救ったのは、どんな知識でも情報でもなく、もともと持っていた宗教的見地でした。
もうね、こういう問題に理屈の入る余地など無いとわかったんですよね。
神が決めた事を「意味があること」としてそのまま丸抱えする、ということでしか解決できなくなっちゃった。単純に言えば「なるようになる」ということで、もうちょっと言えば「きっと神は悪いようにはしない」という信頼みたいなものかもしれない。
「健康な赤ちゃんを欲しいと思う気持ちをもつことに罪悪感を感じる気持ち」を、私はまず払拭したかったわけですが、その感情を「仕方が無いんだ」と思えるようになったのは、自分は天使ではなく人間なのだというあたりまえのことに納得したからです。
人として、この気持ちを払拭する事はできない…と。そう確信した。
これは人間の「業」ってやつなのね。悲しいけれど、そもそもこういう点が人間が最初から罪人だといわれるゆえんだもん、仕方がない。
宗教的解決は個人の思索を超えたワープみたいなもので、ご都合主義かもしれないけど、今の私にはそれが一番「本質」なのでした。

個人としての願いはある。祈りもある。けれど、それは与えられた運命とは隔絶しているし、神の恵みとは次元が違う。願いが聞き届けられなかったかどうかなど、人間レベルの話ではわからないんですよね。それは神の領域なのだから。
希望をもちつつ、運命も受け入れる。それでいいじゃないの。
ゆえに私は何も悩む事も無いんだ、と…気に病むことも、責任を感じる事も、自分を責める事も無いのだ、と、ようやく納得し、そしてやっと穏やかな心持ちになれました。
なんか、バカバカしい事で悩んでいたかも…という気持ちになれた。やっと。

丁度、そんな精神的解決を見出した頃から、私は胎動を感じるようになりました。
リアルな感触として肉体に響く命が、これらの想いを次第に確信に変えた。
胎動が始まると、実感として「赤ちゃんが私のもとに来てくれた」という気持ちになる。
元気にお腹をポコポコ蹴っている小さな存在を感じていると、「この子は、この家庭を選んでやってきてくれたのだ」と、たまらない愛おしさがこみ上げてくる。「何があっても守るからね」、という強い気持ちが胸に広がる。
それから先はもう、悩んだりした日があったことなどが段々嘘のように思えてきた。
私はやっと、自分の立つ現実に戻ることができたように感じました。
「現実」は、自分のお腹の中で動いている触れば感じる確かな命にある。私はそこに向かい合っていることで心の安らぎを覚えるようになった。
(まだ続くんだ、これが)