後味の悪さ

連日、代理母のことで勝手な意見を書いてきたけど(ここは私の意見だけを一方的に言う場なので、それなりに読んで欲しいわけですが)、なんだかやはり、私がどうこう言うべき問題ではない、という意識がどこかにある。
こういう(私がどうこう言うべき問題ではない、という)意識をもつことは本当は良くない(=自分は恵まれているのだから、恵まれない人の行動をとやかく言ってはいけない…みたいな歪んだ優越感の現われのようでイヤらしい)とわかってるんだけど、どうしても「それでも私が言っちゃいけないのかも」と思う。
それはたぶん、臨場感の問題なんだと思う。命に対する臨場感。
もちろん妊婦は通常よりその臨場感がある。だからこそ、こういう話題に敏感になるわけだけど、それは状況的にあくまでも「+(プラス)方向の」臨場感なんだよね。

昨日、沢木耕太郎の『無名』を読んで、「死」というものの圧倒的な大きさを思った。
(これは沢木さんご自身が父親の死に向かい合った日々を綴った良著です。)
死に向き合う臨場感は、ひたすら「-(マイナス)方向の」臨場感で…喪失を前提とした最後の日々は、どんな執着をもってもおかしくないんだろうな、ということがよくわかる。
「死」とは状況としての事件性以上に、(個々人の)歴史の総括なのだよね。
「死」に近づいて、人の心はどこに拠るか?といったら、それは幼き頃の記憶や故郷の景色や父母の影や自分の子供の幼き日だったりするのかもしれない。つまり「子供」だ。
人は子供に執着する。
自分の子供の頃のこと。父母にとって子供だった頃の自分。自分の子供が子供だった頃の事。
それらの記憶。それは血への本能的な回帰(執着)なのかもしれない。

ガンで余命宣告までされた向井亜紀さんが、どんな過酷な選択をしたかを、私などはどう考えても知りようがない。彼女が死というものの影をはじめて自身の上に感じたとき、子供を残したいと思っても、誰も責められない。
そりゃ個人的意見として代理母は絶対反対だし、その意見は変わらないけれど、それを利用する人間が全て「間違っている」などということは言えない(別に私も向井さん個人を責めてはいないけど…代理母の代名詞みたいには捉えているので、批判はそちらに向かってしまうので心が痛みます。彼女もそれを承知でそこに立ってると思うけど…それにしても)。
人間には「どうしようもないこと」というのがあるんだろう、と思う。
「もし私だったら」ということを考えるのは大事なことだけど、実際に死に面した人の気持ちなど、正直なところ判りようがないのだ。わかる気がすると思うのさえ、おこがましい。

何かを話題にするときに、どこに「意見」するのかは明確にしないと危ないなぁと思う。
制度に対する嫌悪感と、それを支持する人への想いは別にすべきかもしれない。そうでないと、お互いの意見の交換もきっとできないだろう。バッシングや「叩き」に終わってしまうような「批判」は、口にすることに意味がない。
と、そんなことをフト思ったのでありました。
ブログなんてのが流行る時代になると、誰しもが自分の意見を声高に言うようになるけど、意見を言う中にも「畏れ」がないと、と感じます。自分はまだまだ、何もわかっちゃいないのだ、という「畏れ」。
でも、だからといって黙ってしまうのはそれもまた良くない。
青臭い中にも誠実な心を持って自分の意見が言えたらステキなんだけどね。