「たったひとつのたからもの」

先日放送された話題のドラマ。
録画しておいたのをやっと観ました。
ここでも少し前に「出生前診断」について長々と書きましたが、ダウン症児の母となる可能性は、子を産む女性の誰でももっています。
高齢出産だった私は、妊娠中にそのことについてかなりいろいろ考え、悩み、調べ、覚悟をつけてもいたので、「いつでも当事者になりうる母の一人」としての心構えは、それなりにあるつもりでした。
もし自分が障害を持った子供の母となってもなるたけ動揺が少なく済むよう、こういった手記はいろいろ読みました。「知る」ことで多少なりとも安心したかったので…。(というか、知らないでいることによる不安があまりにも強かったのです)
もちろん、このドラマの原作本(「たったひとつのたからもの」加藤浩美・著/文藝春秋刊)も読んでいます。

そういう「現実」を抱えた家族がいた、ということが胸に迫りました。
理屈ではわかっていたつもり。
でも、結局理屈なんかじゃ何もわからないですね。当事者の気持ちは、想像を絶する。わかったような気になるなんてあまりにも不遜だということに気づく。
もう…ドラマ観ているうちに、ツラくてたまらなくなってしまった。あまりの悲しみに涙が止まりませんでした。
とにかく、子供が幼くして逝ってしまうということ。これがもう、全てに先んじて悲しくツラい。耐えがたい。
もちろんその原因は障害にあるのだから、障害があること自体が悲しいのは言うまでも無いんだけど…それでも生きていてくれさえしたら。
たとえ成長がゆっくりでも、そういうのを乗り越えたところに待っているものがもっと別のものだったら…と思わずにいられない。
主人公のご両親の祈るような気持ちが、しんしんと胸に沁み、いたたまれない気分になりました。

このお話って確かに愛の深さや家族の絆などに感動してしまうのだけど、「感動」って言葉でくくって、涙を流して、ああ、愛って素晴らしい!ってのはちょっと違うと思う(ましてや小田和正の音楽に泣かされてるのもどうかと)。もっと冷静に観るべきものなのではないか?と思います。
彼らの存在は何か大事なことを私たちに教えてくれている。
自分と彼らを分けた境界線はあまりにもランダムに引かれたものなわけで、もしかしたらホントは私がその立場だったかもしれないという意識だけは忘れちゃいけない(つまり誰もが当事者たりえるという意識で見守るべきものではないのか)と。
ま、全て「優しさ」とは相手の立場を想像するところから始まるわけですが、こういう手記やドラマがその想像(というか、認識、ですね)の一助になれば、それは意義のあることなんでしょうね。

ドラマ自体の感想は…よくできていたドラマでしたが、やはりこういうものは語るに過ぎると虚しくなってくる部分があるかと思いました。
多弁ゆえに、却って伝わらないというか間違って伝わる部分も多いというか。
ちょっとウザイ感じの先輩ママの存在などは、誤解を生みそう。
笑顔が過剰で自己満足気味な保育士とかも、ちょっと拒否感感じたし。エラそうなこと言う園長なんかも私だったらカチン!ときてるだろうなぁ。どうなんだろう。
ダウン症児に接する時のためのそれに関して知識の無い人たちに対する教育ビデオとしての機能としては、有意義な面もあったと思います。
が、ご両親の心情を描くのにはやはり、あの有名な一枚の写真(原作本の表紙に使われた写真)に勝るものはないですね。
あの写真には、どんなに言葉を重ねても伝わらないものが溢れている。無言で「たったひとつのたからもの」の存在を示しているもの。

ドラマを見た後、検索をかけていたらとても勉強になるブログを見つけました。

S嬢のPC日記


障害を抱えたお子さんを持ったお母さんが記事を書いてらっしゃるブログです。
ここでいろんな文章を読めたことが、今回一番の収穫かもしれない。