浜辺の貝殻のような

何年やってもサイト作りってのは迷いばかりです。
自分なりの正解、ってものさえ見つけることができず、やればやるほど不満や不安が出てくるし、「これで完成」っていうゴールもたぶん永遠に来ない。
頻繁に「こういうことしてる意義は果たしてどこにあるのか?」なんて考えたりもする。
なんでこんなことやってるんだろう。
けれど「なんで?」の答えを、私は(うまく言えないながらも)ちゃんと知っている。そこに折り合いをつけられないうちは、きっとサイトをやめることはできないんだと思います。

私は、田舎町の小さな部屋からどこに届くともわからない言葉をつぶやき続けたいだけなのかもしれません。
アメリカン・グラフィティ」のウルフマン・ジャックみたいに。
夜の中、独りきりでアイスキャンデーなんか舐めながら顔の見えない誰かに向かって話をしている。その状態そのものが好きなのかも。
実際に聞いてくれる人がいようがいまいが、それは関係ない。「この向こうに誰かがいる」という思い込みだけでいい。
ってか、(ネットも放送局も)こっちからは他者の存在はわからないわけだし、結局は自己完結してるんですよね。
発する言葉は、流れ去るままでいいのです。
誰が聞いてても、誰も聞いていなくとも。
私は、いつかほんの少しの共感を持ってそれを拾ってくれる人がいる「かも」と思いつつ、何かの標(しるべ)のように文章を書き綴っていたい。
端的に言うと、この、「かも」が、私がサイトを続けるモチベーションなのです。
誰かに伝えたいことが特にあるわけではない。聞いて欲しいことがあるわけでもない。
でも、いつか…砂浜で桜貝を拾った人がそれをささやかな記憶に残すように、私の言葉が誰かの心をチラとでも照らせたら…という「想像」は私をどこか支えてくれる。誰もが持つ他者との関わりへの切望は、私の場合この「想像」で充分なのです、たぶん。

ベケットの「ゴドーを待ちながら」の中の有名な台詞に
「生きたというだけじゃ満足できない」「生きたことをしゃべらなければ」というのがある。
人は自分の生きている証のように言葉を吐き出し続けるのかもしれない。
どこかに向かって、というわけでもなく。

これからもこうしたことをするのに飽きるまで、おしゃべりをしてゆくつもりです。